2011年の3月11日のことは、いまでもハッキリと覚えています。
あの日のあの時間、僕は川崎フロンターレの練習取材に向かっていました。
当時は、エルゴラッソの担当記者です。
週末に控えていたのが横浜F・マリノスとの神奈川ダービーでした。金曜日だったので、エルゴラのプレビュー記事(移籍後、初対戦となる山瀬功二と谷口博之を大きく扱ったページでした)も既に発行されており、取材で麻生に足を運ぶつもりはありませんでした。
ただ日曜日開催の試合だったので、いわゆる即上げで、締め切り時間の都合上、当日はエルゴラのマッチコラムを試合中に書かなければなりません。前々日の金曜日に行われる実戦形式のトレーニングが試合でどう反映されるのかを観ておこうと思い、材料集めに足を運ぶことにしました。練習開始時間は14:30だったはずです。
移動中の電車の中ではエルゴラの選手名鑑でマリノスの選手の情報を眺めていたら、「森谷賢太郎」という選手の説明文が「好きなおかしランキング」で埋め尽くされていて「いや、このモリヤって、どんなプレースタイルなんだよ。そっちの情報を書いてくれよ、藤井くん・・・!!」とツッコんでいたのを妙に覚えています。電車を乗り継いで、いつものように新百合ヶ丘駅からタクシーに乗って麻生の練習グラウンドに向かいました。
異変に気付いたのは、練習場のある丘が見えてきた道路を走っているときのことです。道すがらのセブンイレブンの自動ドアから、血相を変えて駐車場のほうに飛び出してきたお客の姿が目に飛び込んできました。
「なんだろう?」
意味が分からず、いぶかしがっていた僕を見て、中年のタクシー運転手さんが言います。
「大きい地震ですね。すごく揺れてますよ。いま、私もハンドルが大きく持っていかれそうになりました・・・ここまでは初めてです」
タクシーの車内にいた自分は地震にまったく気づきませんでした。数十秒後、車内に流れていたラジオ番組が、すぐに地震速報に変わります。
「宮城で震度7」
震度7って・・・ 自分は北海道根室市出身です。道東地方は地震が多く、中高校時代には釧路沖地震、東方沖地震なども経験しています。だから、地震には慣れているつもりです。それでも、体験したのは「震度5強」でした。「震度7」なんて聞いたこともありません。
丘を登り、麻生グラウンドに着きました。 到着していた番記者陣は、みなこの地震の情報収集に追われていました。一方で、グラウンドにいた選手達は練習をしています。揺れは感じたそうですが、練習に支障はなかったのでチームは紅白戦もきっちりと実施していました。もちろん、東北地方で大地震が起こっていたなんて選手は知る由もありません。
自分もこのときはまだJリーグは開催されると思っていたので、選手の動きやチームの狙いを把握しつつ、地震の情報収集をしていました。その間、何度も余震が起こりました。 時間が経つにつれて東北でかなり大きい地震があって、時間がたつにつれて被害の大きさ、ことの重大さが明らかになっていきます。練習中ですが、「仙台対名古屋戦が延期になるかもしれない」という噂が記者の間で流れ始めます。
通話機能は完全に麻痺。ワンセグで被害映像を確認し、ツイッターのタイムラインには対応策の情報で埋め尽くされていました。機能していたツイッターではエルゴラッソ仙台担当・板垣記者の「とりあえず無事です」というつぶやきを発見したときの安堵感は何事にも変えられません。
練習後、広報さんから「間もなく正式にリリースされますが、週末のJリーグは全カード中止の方向です」との旨が報道陣に伝えられました。それを受けて、エルゴラの編集部からは週明けの月曜号を休刊にする方向で調整しているとのメール連絡も入っていました。このときにはもう事態の深刻さがうかがえます。
帰宅していく何人かの選手に話をききました。
試合に向けた話を聞こうと思っていたのですが、全試合が中止になったのだから、それどころではありません。練習中に起きた地震だったこともあり、被害状況を把握している選手もほとんどいません。選手はみな慎重に言葉を選びながら、現在の心情を話してくれました。
主将だった井川祐輔選手は、「寝ていて揺れを感じたと思ったら、父親が覆いかぶさってきて・・・」と、幼いころに体験した阪神大震災について話してくれました。今後のことについては「できることがあれば考えていきたい」とも話していました。当時の相馬直樹監督も「事態を知れば知るほど、試合中止は当然の決定だと思います。被害に遭われた方に対して何て言葉をかけたらいいのか・・・言葉が見つかりません」と複雑な表情で言葉を並べていました。
取材が終わると、辺りはすっかり暗くなっています。
本来ならば帰宅する時間のはずなのですが、自宅に帰ろうにも、JRは終日運休をすでに発表。利用している小田急線も復旧の見込みが立たずとの情報が流れていました。都内は大渋滞しているので、車で送ってもらうわけにもいきません。タクシーを呼ぼうにも、電話がつながらないのだから呼べません。
自宅まで約20キロの道のりを歩いて帰ろうかとも思いましたが、帰宅難民が二次被害を受ける可能性もあるとのニュースを目にして思いとどまりました。結局、帰宅はあきらめ、クラブハウスに宿泊させてもらうことになりました。
川崎市周辺では停電のあった地域もあったそうですが、クラブハウスでは停電もなく電源もネット環境も確保できていたので、プレスルームでノートパソコンで仕事をしていました。「お風呂も入ってください」との好意もいただき、選手が普段使っている大浴場を利用。なかなか眠れなかったので、頼まれていた書評原稿を書いたり、インタビューの文字起こし作業をして、4時ぐらいに就寝。翌朝には本数が少ないながらも電車も動いており、無事自宅に帰宅することができました。
・・・・まるで昨日のことのように思い出しますが、あれから5年が過ぎました。
いろんなことがありました。川崎フロンターレは「支援はブームじゃない」を合い言葉に、現在も継続的な募金活動や陸前高田への訪問活動を続けています。今年は、陸前高田で親善試合を行います。
少しずつ、前に進んでいくしかないですよね。少しずつ。
そしてサッカーのある幸せに感謝したいと思います。