どうも、いしかわごうです。
等々力でのナビスコカップ山形戦は1-1。
試合終了のホイッスルが鳴り響いたときの、等々力のあの静寂がすべてを物語っていたと思います。負けたわけじゃありませんし、追いついてのドローです。でも内容を含めて、とても残念な結果でした。
試合を分析すれば、語れるトピックはいろいろあります。でもこの試合に関しては、語るべきことはそこじゃないような気がします。
もっと根本的なところですよね。
この試合に関しては、プレーから伝わってくるものがあまりなかった。それが問題だったと思ってます。
なんで伝わってくるものがないのか。
それは”意志”を発していないからです。まるで何かを怖がってプレーしているようにも見えました。「自分はどうしたいのか」という意志をもっと表現してプレーをし続けなければ、味方にも観客にもその熱を伝えることはできません。
失点したことで、後半途中から急遽出場となった中村憲剛、大久保嘉人、レナトの3人。終盤に入ったレナトはプレー機会が少なかったですが、中村憲剛と大久保嘉人は見るからに意志を発してプレーしていました。
途中から孤軍奮闘していた大久保嘉人は、試合後のミックスゾーンで「自分がボールを引きつけても周りが動いてくれないし、そこでパスを出しても準備していないからミスる。良いときのような連動がない」と、この日の問題点を指摘してました。「だったら、今日は自分でやってやろうと思った」と。周囲からの意志を感じられなかった以上、自らが強烈な意志を発せざるをえなかったということです。
この日の同点のシーンは、DFの間に抜け出した船山貴之の動きを、中村憲剛が見逃さずにパスを出して生まれました。シュートは相手GKに弾かれましたが、そのこぼれをエウシーニョが詰めた形です。パスを配給した中村憲剛は、「あそこは貴之が意志を持って動いていたから。自分が引き出したけど、貴之に自分が引き出された部分もある」と話していました。
出し手と受け手の関係に関して、「使う側と使われる側」という言い方がありますが、あの場面も両者がプレーに意志を発していたからこそ感じ合い、生まれた形です。やはり観ている側は、サッカーでああいう場面をたくさん見たいわけです。
試合後の会見で、風間監督は「意識の差」に言及してました。試合後の会見で風間監督がマインドのことに踏み込んで指摘するのは、珍しいと思います。
思い出したのが去年の解散式でのことです。
年間の総括を話す風間監督に「同じ練習をして、技術もうまくなっているのに、年間通じて選手間でこれだけ差が出てしまうのか」という旨の質問をしたら、「そこは、マインドの違い」だとハッキリと言ってました。マインドの違いとは、言い換えると、普段の練習の意識の違いとも言えます。去年一年の変化を、風間監督はこう指摘していました。
「自分がどのぐらい余裕を持っているか、あるいは、先取りができているか。練習の中から、自分にないもの、試合で必要なものをトレーニングしている選手もいる。ショウゴ(谷口彰悟)であったり、リョウタ(大島僚太)がそう。それは素質であり、才能。そこで変わっていく選手は変わっていくし、判断も変わる。結局、判断のミスをしない選手はちゃんと準備をしている。でも判断のミスを続ける選手は、そこの分析ができていない」(風間監督)
チームには25人以上の選手が所属しています。プロの監督が、試合に出てる選手、出てない選手の1人1人全員に手取り足取りプレーの指導とメンタルサポートができるわけもありません。だからこそ、日々どう取り組むかは選手の自己責任になる。そこは子どもではなく、プロの世界なのだから、というのが風間監督の考えです。
・・・このトピックは、書き出すと収集がつかなくなりそうなので止めておきます・笑。とりあえず、詳しくはこちらの記事を。
教えるのではなく、あるものを引き出す〜風間八宏監督の指導スタンス
(なぜかリンクがうまく貼れない・・)
http://ishikawago.com/archives/300
とまぁ、山形戦はピッチ上で起きた現象から、いろんなものが読み取れて、それを考えさせられる試合になりました。
明日発売です。
フロンターレ尽くしの一冊です。僕はコラムと板倉滉の原稿を執筆してます。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。